黒部川の電源開発のあゆみ

はじめに

 黒部川集水域は全国屈指の降水地域(682ku)で、年平均3,800mmの降水があり、年間31億トンの雪や雨が降り、これが平均勾配1/40という落差をもって日本海に注ぐので、電源開発には最も恵まれた河川ということが出来る。

 宇奈月をはじめとする黒部峡谷一帯は、江戸時代には加賀藩の直轄地で、黒部奥山廻り役といわれる人達が監視にあたっていた。

 時代は明治に移り、明治30年ごろまで中部山岳地帯、特に北アルプスは日本地図の空白部として残された秘境であり、明治政府参謀本部陸地測量部により明治27年、立山から測量が始まり最も険しい剣岳にいたっては明治40年になされた。

 この秘境の地の水力にいち早く目をつけたのが福沢桃助でした。彼は明治40年に日清紡績(株)を起こし、第二の工場を黒部川の下流に位置する入善町に建てる計画し、明治42年黒部川を訪れます。しかし岩を食む黒部の激流を見て、とても発電所はできないとやむなく諦めたといわれている。

 そして本格的な発電事業を考えたのは、富山県出身者の応用科学者高峰譲吉である。タカジアスターゼの創製、アドレナリンの発見者として著名であるが、実業家としても優れていて、アメリカの実業化とも交際が広く、当時アルミの独占的な企業であるアルコア社のデービス社長とも親交があった。
 大正6年タカジアスターゼの企業化を図っていた塩原又策と高峰譲吉は、日本最初のアルミ精錬所を計画し、7月に東大土木工学科出身で逓信省電気局に技師として奉職していた山田胖を引き抜き、その創立計画に当たらせる。彼は12月に、宇奈月から黒薙まで雪が降る中、開発調査に赴いている。
 大正7年、アルミ精錬に関心を示した富山県内を含めた財界人と語らい東洋軽銀(株)設立の議が起こる。当時、電力界は空前の開発景気に湧き、各企業が黒部川の水利権をめぐり、その獲得にしのぎを削っていた。桃原(現、宇奈月)から柳河原までは富山水力(株)、柳河原から猿飛までは三井鉱山(株)がすでに水利権を出願していた。山田は競願を避けその上流の欅平から平の小屋に至る長大な地区に大正7年4月に権利を出願した。大正8年、黒部川以外の神通川の一部の水利権を得ると同時に社名を東洋アルミナム(株)とし、さらに黒部川の水利権獲得に奔走した。
 ところがこのアルミ精錬事業はアメリカのアルコア社との合弁事業として進めていたため2国間の許可条件でぐずつき計画が進まない。そこでとりあえず日本側だけの計画とし、1000万円の資本金で東洋アルミナム(株)を正式に現在の三共製薬(株)本社内に設立する。代表取締役は高峰譲吉と塩原又策である。大正8年12月のことである。
 大正8年は、第一次世界大戦が終わりベルサイユ宮殿において講和会議が開かれ日本が5大強国のひとつとして登場し、大坂送電(福沢桃助)日本水力(山本条太郎)日本電力(山岡順太郎)信越電力、台湾電力などの大規模水力を予定する電力会社が相次いで設立される。
 黒部川の水利開発権は結局、政府が斡旋に乗り出し、大正9年2月、猿飛以下柳河原までを東洋アルミナムに与え、これをうけ山田は俗称ウナヅキ平に電源開発の前進基地を建設し、欅平から十字峡までの測量並びに開鑿、大量の建設資材、人員を運び込む軌道施設計画(黒部から宇奈月間18km)を立てる。
 大正10年、東洋アルミナム社は地元の人々も利用できるようにと、一般営業を目的とする黒部鉄道(株)を設立しその測量・建設工事に着手する。併せて終点の桃原(宇奈月)を温泉地として拓き、温泉は鉄道により成り立ち鉄道は温泉によって潤うという長期計画を立て、翌年には黒薙温泉、鐘釣温泉の営業権を手中に収め黒部温泉(株)を設立する。後にこの会社は黒部鉄道(株)に吸収合併される。
 大正11年、東洋アルミナムの事業は第一次世界大戦終結に伴う経済不況と事業の推進役の高峰譲吉の死により挫折してしまう。そこで東洋アルミナムは事業の主目的を変更して、当時中部山岳地帯の電源開発を目指していた日本電力と連繋するようになる。後、電源開発の主体は日本電力の手に移り、昭和2年には柳河原発電所が作られ、ついで黒部川第二発電所、黒部川第三発電所などが同社の手で作られました。戦後は関西電力株式会社の手によって、黒部川第四発電所をはじめ新黒三、新黒二、音沢などの発電所が作られ、主に関西方面に電気を送っています。

 
柳河原発電所

 大規模な黒部川電源開発の第一歩は、柳河原発電所の建設でした。しかし、宇奈月から上流はわずかな歩道だけで、両岸には岸壁が峻立しており、到底工事を進めるような状態ではありませんでした。そこで大正12年9月宇奈月〜猫又間の建設資材運搬用の軌道施設工事に着手し大正15年苦闘の末ようやく軌道が開通しました。

 一方軌道の貫通が見えてきた大正13年6月発電所建設工事に着手し、大洪水や大雪崩などに見舞われながら、調査開始から10年後の昭和2年11月ついに運転を開始(54,000kw竣工時日本最大)しました。

 現在の新柳河原発電所は宇奈月ダムの建設に伴いメルヘン風な建物に全面改築されました。出力は落差の関係で41,200kwに低下したものの、宇奈月ダム完成の暁には湖上の城といった景観になるはずです。