山田胖(ゆたか)の引湯

 宇奈月が温泉街として発展するには、どうしても安定した温度のお湯を確保していなければならなかった。愛本温泉の失敗は、その引いてきたお湯の温度が低下したところにあった。宇奈月温泉への引湯工事を指揮したのは東洋アルミナム(株)、日本電力(株)で電源開発の実務を担当していた山田胖である。その山田氏の著書「宇奈月温泉由来」には引湯に成功するまでのことが記されている。

 山田氏が引湯管についてヒントを得たのは、愛本温泉の風呂に入浴中のことであった。風呂に2、3人の男がおり、そのうちの一人が「黒薙の湯元で水を少し加えたら、もう少し温かいお湯が来るはずだ。」と話すのを、山田は耳にしたのである。山田氏は流量と流速のことに気がつき「それなら竹筒のような細い物を使えば温かい湯が引けるのでは。」と口走った。泉源で水を加えると温度は下がるが、流速は増し、泉源での温度低下より流速増加によって温度の低下が少なくなれば、温かい湯を得ることが出来るのである。この理屈から、流速を早くするような引湯管を作れば良いと言うことになった。

山田氏は温泉の流量と流下時間、湯量の低下などを調査し、大正11年(1922)2月に下記の表のようなデータを得た。

観 測 点

距離(km)

流下時間

温度

泉 源    0.0    0.0    92℃
嘉々堂谷    2.3    2.9    53℃
野坊瀬谷    3.2    4.0    43℃
尾沼谷    3.9    5.0    39℃
宇奈月    6.8    8.7    20℃
愛本温泉    9.0   11.3     16℃
宇奈月温泉の開祖 山田胖                                           温泉流量 0.0243立方尺/秒
 これにより源泉から1〜2km地点までは温度は急激に低下するが、その後は低下の割合は減少し、4時間で温泉地に到着するようにすれば、冬期間でも充分な温度のお湯が得られることがわかった。

 温泉の湯量は充分でないので、泉源の掘削が行われた。この掘削は現在のようなボーリングでなく、岩盤に小さな随道を彫るものであった。100℃近い高熱の岩盤では長時間の作業はできず、短時間で交代しながら掘り進めて行った。その結果湧出量は10倍に増大した。

 愛本温泉の樋は普通の溝のようなもので、湯はその勾配によって流れていたが、山田は流速を増すため、圧力に耐えるパイプとすることにした。パイプといっても当時は赤松をくりぬいた木管であった。このような導水管を利用すると、流量と管の断面積と流速は次のような関係になる。 (流量=管の断面積×流速)

 引湯については、その他落差による最大の流速も求めなければならなかったし、導管に付着する湯垢の影響も計算しなければならなかった。これらの諸条件を総合し、確保できる湯量や宇奈月まで2時間台で到達できることなどから計算して、導水管の直径を4寸とする。これによって冬でも摂氏55℃の温泉が確保できると計算した。

 引湯管はほとんど愛本温泉が使用していた木樋のラインに沿って敷設された。山田氏は引湯に成功した様子を次のように語っている。

 大正12年11月末引湯線工事も竣工し、某日既に北国の霙模様の冬空にかかって愈々通湯することになった。此計画は前述のような計算に相当自信を以ってやったのであるが、愈々となると若干の不安を免れぬ。愈々黒薙温泉でヴァルヴをあけるというので我々は宇奈月の管末に行って見ると中々湯がこない。1時間あまりを経て冷たい水がチョロチョロと流れてきた。稍落胆の気味で合宿所に引き上げ夕食を取っていると、工夫が駆け込んで「湯がきました」と報告する。箸を捨て駆けつけてみると管の末端から湯気が上がり暑い湯が流れ出し、工夫たちは其の所の土地を掘って浴槽を作り、既に湯につかっている。大正12年11月末の某日の情景、これが宇奈月温泉の第1ページである。
2003年に宇奈月温泉は開湯80周年を迎える。

 山田胖の黒部開発の功労を顕彰する胸像と顕彰録が有志の手で、昭和33年宇奈月町で作られた。