宇奈月温泉街史
黒部奥山には、県内随一の高温で湯量が豊富な温泉が多く湧いている。これらが発見されたのは、主に江戸時代であった。しかし当時、越中を治めていた加賀藩では奥山一帯を御縮山として立ち入りを禁止にしたため、温泉地として人々に利用されるようになったのは一部を除いて比較的新しい。ことに宇奈月温泉は、黒部川の電源開発に伴って誕生したのは、大正時代の末期であった。 この間、黒部奥山の宿命とも言える洪水と土石流災害などで廃湯になった温泉もあり、幾多の変遷を経て今日、多くの観光客を迎えて「黒部八湯」が賑わっている。 |
■発電事業と温泉開発 黒部峡谷の本格的な電源開発をはじめたのは東洋アルミナム株式会社であるが、同社は宇奈月での温泉開発にも乗り出した。 同社は、アルミニュウム地金を生産しようとし、それに要する大量の電力を黒部川に求めた。この企業家はタカ・ジアスターゼの発明で知られる、高岡出身の高峰譲吉博士で、製薬メーカの三共株式会社の塩原又策社長等も出資者であった。同社は、その開発調査を、通信省電気局にいた土木技師、山田胖をスカウトして、大正6年からこれに当たらせた。東洋アルミナム社は「桃源開」と呼ばれる無住の台地を電源開発の基地とした。危険な峡谷部での電源開発にとって、厚生施設をもつのはその意欲の増進に連なるものであった。また、宇奈月まで延びてきた黒部鉄道も、温泉客を運ぶことによりその経営を安定させることができた。 大正11年(1922)東洋アルミナム社の塩原又策、山田胖は富山県人の中田六郎平、谷欽太郎、赤間得寿、木津太郎などともに資本金百万円の黒部温泉株式会社を設立した。東洋アルミナム社は黒部温泉社設立に当たり,先に開湯した愛本温泉関係者と折衝し、同社の所有していた施設と権利を6万円で買収した。さらに、黒薙と二見の両温泉の財産と権利を2万円で買収した。これにより、柳河原ダムの建設により黒部川の水位が低下し、温泉の湧出量が減少するとする既設温泉のダム反対運動は終息した。 黒部温泉(株)は坪一円で温泉地の用地買収をはじめた。土地はすべて内山村の住人の所有で、買収に当たったのは人見長太郎であった。(黒部峡谷、仙人にある関西電力の人見寮は人見氏にちなんで名づけられた。)はじめは5万坪の買収を予定していたが、東洋アルミナム(株)は第一次世界大戦の経済不況でアルミ製造事業は見込みがなくなり,発電事業から撤退したので、土地の買収は2万5千坪で打ち切られた。東洋アルニ社の発電事業は当時中部山岳地帯の電源開発を行っていた日本電力株式会社に受け継がれ、温泉開発事業もそのまま継承となった。宇奈月温泉の開発は、先に買収した2万5千坪の範囲内で行われるようになった。 日本電力(株)は、大坂に本社を持ち,日本の5大電力の一つに数えられていた。当時の社長は大坂所業会議所の会頭をつとめていた山岡順太郎であった。(山岡氏は関西大学の創始者でもある。)同社は、以後、黒部川の電源開発と宇奈月温泉の開発などを全面的に担った。 |
(平成11年第7回特別展「宇奈月の温泉開発」)より