延楽の揚げ物の一例は、車海老高煎揚です。大根餅を添えて。雪の季節は赤い色合いの器が映えます。
季節のうつわは「乾山写寿見込向附」です。
尾形乾山は、寛文3年(1663)京都の呉服商尾形宗謙の三男として生まれ、兄は画家の光琳です。野々村仁清に陶芸を学び、元禄12年(1699)37歳のとき京都市右京区鳴滝泉谷に鳴滝窯を開窯しました。そこでは色絵、銹絵、銹絵染付の茶道具や食膳器を主体とし、角皿、変形皿、茶碗、火入、香合などが作られました。
乾山移転に伴って工房は洛西鳴滝、洛中二条丁子屋町、江戸の入谷村の三カ所に設けられ、それぞれの窯で作られた作品を鳴滝乾山、丁子屋町乾山、入谷乾山とよんでいます。
乾山焼の伝統は、有名無名の京焼の陶工たちにより、写しとして現在へと受け継がれています。
投稿者: enraku
染付霊芝唐草八角小々鉢
大寒の次候になると、寒さが一段と厳しくなります。漁港の市場も津合蟹、紅津合蟹の競りで活況を呈します。蟹料理の中で格別なのが蟹味噌です。甲羅を使った甲羅焼き、香草を混ぜ合わせた蟹味噌和え、蟹味噌だけを味わったり料理方法は多彩です。
季節のうつわは「染付霊芝唐草八角小々鉢」です。落ち着いた色合いの染付の小鉢は、。蟹味噌を味わうのに適した器です。
描かれている霊芝は、食すと不老長寿を得られる吉草であることから、中国陶磁に図案としてよく使われています。牡丹や松と同様古来より馴染み深い吉祥の印で、明王朝では、霊芝雲と五爪龍の複雑な組み合わせは、宮廷文様として重視されてきました。
紫交趾菊形
富山湾では、津合蟹の他に紅津合蟹漁もおこなわれます。紅津合蟹は水深1000m以上の深海に生息するので、網が使えないので蟹籠を使います。魚津の漁師が編み出した漁法、蟹籠漁です。滞在の料理で使うことがあります。
季節のうつわは「紫交趾菊形」で、永楽妙全の作品です。紅津合蟹の赤が良く映えます。
紫交趾は、交趾焼のうち紫釉が主調となった三彩陶磁です。交趾焼きには磁胎と陶胎があり、高火度焼成の素焼きの生地に鉛釉系の色釉(黄・緑・青・紫)を掛けて低火度で焼成します。紫の強い交趾焼きは、中国では華北の窯で作られた陶器の特色となっています。
もととなる三彩は、日本では桃山時代に復活し、京都の楽焼が交趾焼きと呼ばれるようになりました。江戸中期、後期には、交趾三彩、康煕三彩に学んで三彩を焼いています。京の永楽保全はその代表格です。
黄瀬戸角向付
積雪が多くなると、野菜を雪の下の土に埋めて保存します。寒さで根菜類の甘みが増します。冬野菜の含め煮です。
季節のうつわは「黄瀬戸角向付」です。
表千家家元・惺斎好みで、隅切りになっています。黄瀬戸は、桃山時代に美濃で作られた黄色の焼き物です。
加藤唐九郎は、黄瀬戸を平安時代から近現代まで続く灰釉陶全体として捉え、古い順に瓷器手、ぐい吞み手、菖蒲手、菊皿手と分類しました。
菖蒲手が最盛期(桃山時代)の黄瀬戸で、油揚肌や胆礬や鉄彩による加飾の技法が加えられます。ぐい吞み手は、菖蒲手よりも古くて厚手で、彩調も光沢もあります。菊皿手は最も新しく、江戸期から現代まで続きます。唐九郎は、古窯跡から出土する陶片と語りながら、分類をしたのではないでしょうか。
水沢腹堅(さわみずこおりつめる)
1月25日から七十二侯は、「水沢腹堅(さわみずこおりつめる)」で二十四節気「大寒」の次侯となります。沢に氷が厚く張りつめるほど寒い頃と言う意味です。水はいよいよ冷たさを増し、1年の内で最も寒い時期となります。この頃は大陸からの強い寒気が入りやすく、記録的な大雪や最低気温をもたらします。
寒の内に汲んだ水は、「寒の水」と呼ばれ細菌が少ないのでお酒を仕込むのには最適です。寒仕込みの酒は、きめ細やかですっきりとした味わいに仕上がります。大吟醸はこの時期を選んで仕込まれ、3か月を経て出荷されます。日本酒の仕込みが、最盛期を迎える時期となります。
この時期は、厳しい寒さの中にも太陽は少しづつ力強さを増し、三寒四温を繰り返しながら季節は確実に春に向かっていきます。生き物たちは敏感に春の気配を感じ取り、目覚めの準備を始めています。
染付山水小判皿
雪の日が続くと真鱈がおいしくなります。魚に雪で鱈になります。初雪のころから取れ始め、身が雪のように白いので鱈の漢字になりました。
特に真鱈の白子、真子と最高の食材となります。淡白な真鱈の造りは、唐墨と塩昆布によって旨味が増し、極上の肴となります。地元の皇国晴酒造の「幻の瀧」をぬる燗、温燗で温度を変えて飲むのもお勧めです。
季節のうつわは「染付山水小判皿」です。四代清風與平の作で細やかな筆使いは、余白の中に染付山水を浮かび上がらせます。
仁清色絵雪笹絵戸〆長方向付
雪が降ると、雪笹をモチーフにした器を使うことが多くななります。富山湾の旬魚の味も冴え、刺身が一段と美味しくなります。
季節の器は「仁清色絵雪笹戸〆長方向付」で、幾分かは大きめの器なので、少し多めに盛るのには適しています。戸〆とは戸を閉めた形で、面と面が重なったように見える形状です。見込みに雪笹が大きく絵付けされています。
赤楽笹透向付
雅膳の一皿は、「赤楽笹透向付」です。清水六兵衛の作品で、土の素朴な柔らかさが伝わる一品です。赤みを帯びた色調の赤楽は、楽焼の祖長次郎によって利休の好みを組んで、天正10年(1582)前後に作られました。
赤みを帯びた色調は、釉薬によるものではなく、胎土に用いられている陶土の鉄分によるもので、釉は透明または半透明の低下度釉を用いています。轆轤を使わずに手捏ねで形を作るので、柔らかくて温かみがあります。表面に笹の葉を彫り込んで、存在感を出しています。
仁清着彩瓔珞州浜形向付
寒鰤の造りには大根おろしが欠かせません。その脂は甘くもあり、格別の旨さがあります。地元の甘めの醤油があいます。雅膳の一皿は、寒鰤のお造りです。
季節のうつわは「仁清着彩瓔珞州浜形向付」で、仁清写しです。
州浜形とは、三つの輪を少しずつ重ねたような輪郭を持つ形のことを言います。もともとは、一つの島の一方が入り江となり、他方は陸が海に向かって突き出ている部分を、上から見下ろした形です。桃山時代の織部の手鉢などに見られます。
瓔珞とは、インドの上流階級の人々が宝石や貴金属を編んで頭や首、胸にかけて身を飾った装身具です。仏教では菩薩像などを荘厳する飾り具として用いられ、寺院内の天蓋などの装飾にも用いられています。その瓔珞に似た綴り文様を瓔珞文様と言います。
この文様は、中国では明代、嘉靖、天啓年間に景徳鎮民窯の五彩や金襴手に使われ、さらには明代末期の崇禎年間(1628年~44年)の祥瑞にも使われています。日本では江戸初期に野々村仁清が花瓶に応用します。
鼠志野籠目角皿
雪の日が続くと富山湾に寒鰤が入ってくるようになります。
雅膳の一皿は、寒鰤の塩焼きです。
季節のうつわは「鼠志野籠目角皿」です。
籠目の白文様が、寒鰤の塩焼きを引き立てくれます。
鼠志野は、素地を鉄分の多い泥漿にくぐらせて、掻落し文様を施します。この角皿は、籠目文様を掻落し、その上に厚い白釉をかけて焼いた作品です。古来、籠目文様のような連続した文様は、邪気を払うと言われてきました。皿などの器によく使われます。