色絵海松貝絵向附

<貝寄せ>

滞在料理の酢の物に貝寄せを使うことがあります。バイガイに添えるのは、今が旬のほたるいかです。ほたるいかは、ボイルしてありますのでワタも美味しく味わえます。

季節のうつわは「色絵海松貝絵向附」で、貝を盛りつくけるのに楽しい器です。

向付の図案は、海松貝(ミルガイ)で、海松食(ミルクイ)、海松食貝(ミルクイガイ)とも呼ばれ、殻長15cmほどの大きな二枚貝です。この貝の季語は三冬です。三冬とは初冬、仲冬、晩冬の冬季の3ヶ月で、二十四節の立冬11月8日から立春前日の節分2月3日までの期間です。

木米写赤地唐子四方向付

<てっぴ(とらふぐ皮湯引き)>

雅膳の滞在料理にとらふぐを使うことがあります。欠かせないのが皮の湯引き、てっぴです。峡谷には時折風花が舞い、黒部の山々には雪が残っています。そんな景色を眺めながら食す白いてっぴには、赤絵の器が合います。

季節の器は、「木米写赤地唐子四方向付」です。青木木米は1767年(明和4年)に京都で生まれた江戸後期の京焼の陶工です。師は文人陶工奥田潁川です。木米は、中国の染付、赤絵、青磁、交趾焼の技術と様式を受け、南蛮焼や朝鮮李朝時代の陶磁の作風も加味して多種多彩な作品を残しました。

九谷焼との関係は、1806年、加賀藩は殖産政策の一つとして窯業を再開します。まず京都から青木木米を招いて金沢卯辰山に藩営の春日山窯を開窯します。木米は2年ほどで帰京し窯は衰微してしまいますが、彼がもたらした陶器技術はしっかりと受け継がれ、各地で窯が造られて再興九谷の時代が始まります。

桃始笑(ももはじめてさく)

<花桃の見ごろは4月下旬>

3月10日から七十二侯は「桃始笑(ももはじめてさく)」で、二十四節気の「啓蟄」の次侯となります。桃の蕾はふくらみ、花が咲き始める頃という意味です。宇奈月温泉の桃の名所は、黒部川対岸にある花桃の小径で、開花は4月下旬頃となります。

黒部川の水力にいち早く目をつけたのは福沢桃介です。桃介は、1907(明治40)年に日清紡績株式会社を創業します。翌年に東京下亀戸に第一工場を建て、続いて黒部川の水力電気を利用して黒部川下流域の入善町に第二工場を建てる目論見をもって、1909(明治42)年に黒部川に訪れます。その後実地調査も行われ、明治43年5月に工場誘致に関する合意の調印式が東京事務所で行われましたが、経営をめぐって他の役員と対立して役員を辞任します。その結果、入善工場の計画も消えてしまいます。ちなみに福沢桃介が興した日清紡績株式会社のマークは桃です。

その後、福沢桃介は大阪送電株式会社(1919年、大正8年設立)、大同電力株式会社(1921年、大正10年設立)の社長となって木曽川水系の電源開発を進めます。大正11年に木曽川に建設した須原発電所に、ドイツから持ち帰った桃の木を植樹します。それは1本の木から3色の花を咲かせる3色桃でした。それが花桃の小径に植樹されています。現在、木曽川水系と黒部川水系は関西電力㈱が開発管理を行っております。

その後、黒部川の電源開発を提唱したのが、アメリカで活躍していた科学者・高峰譲吉でした。その命を受けた山田胖は、1917年(大正6)に黒部川の電源立地調査に入ります。そして大正8年、アルミ精錬会社である東洋アルミナム株式会社を設立して電源開発に着手します。大正12年、黒部川で初となる八太蔵発電所が完成し、その電気を使って黒部川第一発電所の資材運搬用のトロッコが運行されます。そして黒部川第二発電所、黒部川第三発電所、黒部川第四発電所と建設されていきます。

ところが八太蔵発電所は、昭和44年の黒部出水により土砂で埋まってしまいました。残念ながらその後、解体され今は何も残っていません。電源開発を語る歴史的建造物でした。山田胖が黒部川に調査に入って百年の節目を迎えたのが2017年でした。その年に関西電力から100本の三色桃が贈られ、跡地一帯に記念植樹されました。今では花桃の小径の一部となっています。そして2020年から八太蔵発電所をよみがえらせる工事が始まりました。科環境調査などで、完成が1年遅れて本年竣工の予定となっています。残念ながら開湯100周年には間に合いませんでしたが、黒部キャニオンルート開業の年になります。

古赤絵蓮鷺絵向付

<古赤絵写し>

暖かい気配を感じて土の中の虫たちが活動を始める、二十四節気の「啓蟄」にはいりました。「啓」は開くで「蟄」は虫の冬ごもりのことです。春めいてくると鯛が脂が乗って美味しくなります。お造りは山菜のこごみと合わせます。

季節のうつわは「古赤絵蓮鷺絵向付」で、三代須田清華の作品です。見込みに染付で鷺が描かれています。

仁清色絵水仙絵五寸皿

<ほたるいかのお造り>

春めいてくるとほたるいかの産卵が始まります。昼は深い海底に潜み、深夜から明け方にかけて浅いところへと移動して産卵します。その習性をとらえて行われるのが、富山湾の春の風物詩「ほたるいか漁」です。3月1日から解禁となりました。青白い光は幻想的で、まさに富山湾の神秘です。ほのかな甘みのお造りは絶品です。

季節のうつわは「仁清色絵水仙絵五寸皿」です。富山湾の宝石と呼ばれている白海老のお造りも併せてお召し上がり下さい。

染付内外網目汲出

<しっかりとした網目模様>

寒さが戻ると底物の甘鯛が獲れます。切り身を蒸してポン酢で食します。地酒にあう強肴です。滞在料理の一皿です。
季節のうつわは「染付内外網目汲出」です。
広口の小さな茶碗、汲み出し茶碗で、茶の湯で寄付や待合で用いる茶碗です。勝手から湯を汲み入れて客に出すところから、汲み出し茶碗の名が付きました。
永楽妙全の作で、小さいながらもしっかりとした染付の網目が施されています。

着彩網目花小紋蓋向

<美しい花小紋>

早春の大形のど黒は、脂が乗ってきます。しゃぶしゃぶも美味しいですが、焚き合わせも地酒に合います。やさしく小紋で包みます。
季節のうつわは「着彩網目花小紋蓋向」です。
網目文とは線描きで網の目を描いた文様で、中国の明末の古染付の影響を受けています。19世紀に入ると網目に魚文や桜、菊などの花文を散らしたものが出てきました。

鴬宿梅蒔絵お椀

<鶯の宿る梅>

鶯宿梅とは、鶯の宿る梅の意で、紀貫之の娘、紀内侍の家にあった梅の名前です。「大鏡」によれば、村上天皇のとき清涼殿の前の梅が枯れたため西京のある家から掘り取らせてきましたが、木の枝に「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答えん」という歌が結び付けてありました。天皇はその家の主が紀内侍であったことを知り、深く感じ心残りなことをしたと思ったという故事によります。

二十四節気「啓蟄」の初候に入ると、春を告げる魚、はちめがおいしくなります。雅膳の吸い物ははちめの葛打と干口子です。季節のうつわは「鶯宿梅蒔絵お椀」です。

「大鏡」の鶯宿梅の子孫は、現在京都市上京区の林光院に植え替えられています。林光院は臨済宗相国寺派大本山・相国寺の塔頭で、もとは二条西ノ京にあり、そこは紀貫之邸があった所です。

蟄虫啓戸(すごもりのむしとをひらく)

<昨年の雛飾り>

3月5日から二十四節気は、「啓蟄」に入ります。土の中で冬ごもりしていた生き物たちが、穴を啓いて地上へと這い出してくる頃という意味です。七十二侯は「蟄虫啓戸(すごもりのむしとをひらく)」で二十四節気「啓蟄」の初侯にあたります。

「啓」は開くで「蟄」は虫の冬ごもりのことです。冬眠していた生き物が春の日差しを求めて土から出てくる頃と言う意味で、「啓蟄」と「蟄虫啓戸」は同じ意味です。

3月3日は桃の節句で、古来中国では3月最初の巳の日に行われていたので、「上巳の節句」と呼ばれています。縁起のいい奇数が重なる「五節句」の一つでもあります。料理の中にも桃の節句の彩が添えられています。

赤楽合蛤向付

<上巳の節句にかかせない器>

上巳の節句で欠かせないのが蛤合わせの器と、食材としての蛤で、吸い物や天麩羅として使います。産卵前が一番おいしい頃で、蛤の持つ旨味に加えて甘みがあり、油で揚げることによって更に旨味が増します。

季節のうつわは「赤楽合蛤向付」です。
赤楽は素地に酸化鉄の粘土を塗って赤色をつけ、透明の釉をかけて焼いたものです。蛤は対の貝殻しか絶対に合わないことから貞操を象徴し、相性の良い伴侶と結ばれることを願う縁起物として使われます。