染付芙蓉手高台向附

<山菜天婦羅>

雪に覆われた大地でも春の風が吹くと、山菜の芽吹きが始まります。雪の下の蕗の薹は柔らかく、山の香りがします。山菜の風味である苦みは、油で揚げることによって和らげます。旬の白魚も添えると、春の香りが満載となります。

季節のうつわは「染付芙蓉手高台向附」です。高台なのでお膳が華やかになります。

仁清色絵流水向付

<旬の蛤>

蛤は、ひな祭りの吸い物には欠かせません。俳句では春の季語なので、蛤の美味しい時期は各産地によって違いますが、北陸では春先です。雅膳の一皿は、蛤の酒蒸しです。

季節のうつわは「仁清色絵流水向付」です。流水紋は、厄を浄化する清らかな流水を表している吉祥文です。仁清写しなので周りが華やかになります。

菜虫化蝶(なむしちょうとなる)

<ほたるいか酢味噌>

3月15日から七十二侯は、「菜虫化蝶(なむしちょうとなる)」で二十四節気は「啓蟄」の末侯にあたります。

厳しい冬を越したサナギが、蝶に羽化する頃という意味です。菜虫とはアブラナ科の野菜類を食べる昆虫の総称で、特に紋白蝶の幼虫の青虫のことです。菜の花が畑一面に咲き乱れ、羽化した紋白蝶が飛び始める頃という意味です。宇奈月温泉は、三寒四温を繰り返しながら寒が緩み、陽光も徐々に力強くなってきました。

富山湾では春の風物詩ホタルイカ漁がおこなわれています。朝獲れの新鮮なホタルイカを釜揚げにして山菜と酢味噌で和えます。雪融けとともに沢山の種類の山菜が出てきます。 雪の下の蕗の塔、早蕨、コゴミゼンマイ、蕗、その他菜の花、水菜、クレソンなども春の香りです。これから一段と春の彩が冴えてきます。

色絵金彩福禄寿蓋向

<地魚と春野菜の炊合>

雅の膳の温物は、地魚と春野菜の炊き合わせです。今が旬なのが、甘鯛とおろし蕪と若竹の焚き合わせです。 甘鯛の旨みに、蕪の甘味、加えて若竹の爽やかな香りと上質な出汁は、すべての食材を引き立たせてくれます。

季節のうつわは「色絵金彩福禄寿蓋向」です。 華やかな器を使って早春の香りをお楽しみいただきます。

仁清色絵花筏六寸皿

<春の匠膳のお造り>

富山湾の春の風物詩、ホタルイカ漁が始まると一気に春めいてきます。のどぐろ、富山海老、赤いか、あら、等春の旬魚がおいしくなります。延楽特製煎り酒で白身魚を合わせると、魚の甘みが増してきます。

季節のうつわは「仁清色絵花筏六寸皿」です。若竹などの春野菜も併せて早春の香りをお楽しみください。

赤絵金彩淀屋向付

<鰤の南蛮漬け>

連泊の料理の強肴は、鰤の南蛮漬けです。鰤の唐揚げにネギや唐辛子の入った甘酢を絡めてあるので、地酒に合います。

季節のうつわは「赤絵金彩淀屋向付」で、永楽和全の作です。

永楽和全は永楽保全の長男で、永楽善五郎家の12代にあたります。慶応元年に加賀大聖寺藩の招きにより明治3年まで九谷永楽窯で作陶し、九谷焼の復興に努めました。

色絵海松貝絵向附

<貝寄せ>

滞在料理の酢の物は、貝寄せで今が旬のホタルイカが添えてあります。
季節のうつわは「色絵海松貝絵向附」で、貝を盛りつくけるのに相応しい器です。
向付の図案は、海松貝(ミルガイ)で、海松食(ミルクイ)、海松食貝(ミルクイガイ)とも呼ばれ、殻長15cmほどの大きな二枚貝です。この貝の季語は三冬です。三冬とは二十四節の立冬11月8日から立春前日の節分2月3日までの期間です。

桃始笑(ももはじめてさく)

<花桃の見ごろは4月下旬>

3月11日から七十二侯は「桃始笑(ももはじめてさく)」で、二十四節気の「啓蟄」の次侯になります。桃の蕾はふくらみ、花が咲き始める頃という意味です。宇奈月温泉の桃の名所は、黒部川対岸にある花桃の小径で、開花は4月下旬頃となります。

黒部川の水力にいち早く目をつけたのは福沢桃介です。桃介は、1907(明治40)年に日清紡績株式会社を創業します。翌年に東京下亀戸に第一工場を建て、続いて黒部川の水力電気を利用して黒部川下流域の入善町に第二工場を建てる目論見をもって、1909(明治42)年に黒部川に訪れます。その後実地調査も行われ、明治43年5月に工場誘致に関する合意の調印式が東京事務所で行われましたが、経営をめぐって他の役員と対立して役員を辞任します。その結果、入善工場の計画も消えてしまいます。ちなみに福沢桃介が興した日清紡績株式会社のマークは桃です。

その後、福沢桃介は大阪送電株式会社(1919年、大正8年設立)、大同電力株式会社(1921年、大正10年設立)の社長となって木曽川水系の電源開発を進めます。大正11年に木曽川に建設した須原発電所に、ドイツから持ち帰った桃の木を植樹します。それは1本の木から3色の花を咲かせる3色桃でした。それが花桃の小径に植樹されています。現在、木曽川水系と黒部川水系は関西電力㈱が開発管理を行っております。

その後、黒部川の電源開発を提唱したのが、アメリカで活躍していた科学者・高峰譲吉でした。その命を受けた山田胖は、1917年(大正6)に黒部川の電源立地調査に入ります。そして大正8年、アルミ精錬会社である東洋アルミナム株式会社を設立して電源開発に着手します。大正12年、黒部川で初となる八太蔵発電所が完成し、その電気を使って黒部川第一発電所の資材運搬用のトロッコが運行されます。そして黒部川第二発電所、黒部川第三発電所、黒部川第四発電所と建設されていきます。

ところが八太蔵発電所は、昭和44年の黒部出水により土砂で埋まってしまいました。残念ながらその後、解体され今は何も残っていません。電源開発を語る歴史的建造物でした。山田胖が黒部川に調査に入って百年の節目を迎えたのが2017年でした。その年に関西電力から100本の三色桃が贈られ、跡地一帯に記念植樹されました。今では花桃の小径の一部となっています。そして2020年から八太蔵発電所をよみがえらせる工事が始まりました。科環境調査などで、完成が1年遅れて本年竣工の予定となっています。残念ながら開湯100周年には間に合いませんでしたが、黒部キャニオンルート開業の年になります。

木米写赤地唐子四方向付

<てっぴ(とらふぐ皮湯引き)>

雅膳の滞在料理にとらふぐを使うことがあります。欠かせないのが皮の湯引き、てっぴです。峡谷には時折風花が舞い、黒部の山々には雪が残っています。そんな景色を眺めながら食す白いてっぴには、赤絵の器が合います。

季節の器は、「木米写赤地唐子四方向付」です。青木木米は1767年(明和4年)に京都で生まれた江戸後期の京焼の陶工です。師は文人陶工奥田潁川です。木米は、中国の染付、赤絵、青磁、交趾焼の技術と様式を受け、南蛮焼や朝鮮李朝時代の陶磁の作風も加味して多種多彩な作品を残しました。

九谷焼との関係は、1806年、加賀藩は殖産政策の一つとして窯業を再開します。まず京都から青木木米を招いて金沢卯辰山に藩営の春日山窯を開窯します。木米は2年ほどで帰京し窯は衰微してしまいますが、彼がもたらした陶器技術はしっかりと受け継がれ、各地で窯が造られて再興九谷の時代が始まります。

古赤絵蓮鷺絵向付

<古赤絵写し>

暖かい気配を感じて土の中の虫たちが活動を始める、二十四節気の「啓蟄」にはいりました。「啓」は開くで「蟄」は虫の冬ごもりのことです。春めいてくると鯛が脂が乗って美味しくなります。お造りは山菜のこごみと合わせます。

季節のうつわは「古赤絵蓮鷺絵向付」で、三代須田清華の作品です。見込みに染付で鷺が描かれています。